善良であれ
職員室の空気感に、ふと疲れを感じることはありませんか? 誰かの欠点をあげつらったり、派閥の中でコソコソと立ち回ったり……。 長くこの世界にいると、そうやって自分を守ることが当たり前のように感じてしまう瞬間があるかもしれません。
しかし、20年という月日を経て、私がたどり着いた結論は至ってシンプルでした。 それは、『どんな時も、善良であれ』ということです。 これは単なる綺麗事ではありません。過酷な現場で自分自身の心を守り抜くための、最強の『生存戦略』なのです。
悪口は、言った本人を一番疲れさせる
職員室という閉ざされた空間では、誰かの悪口が「共通の話題」になってしまうことがあります。しかし、私は20年の経験を通して、悪口には「恐ろしい副作用」があることに気づきました。
それは、悪口を吐き出した瞬間、自分の心に「猛毒」が溜まっていくということです。
1. 脳は「主語」を理解できない
脳科学的にも言われることですが、脳は誰かに対する悪口を、まるで「自分に向けられた言葉」のように受け取ってしまうそうです。「あいつはダメだ」と続けることは、自分の脳に「ダメだ」とネガティブな言葉を浴びせ続けているのと同じこと。
悪口を言った後は、一瞬スッキリした気がしても、その後になんとも言えない「どろりとした疲れ」が残りませんか?それは自分の心が、自分の言葉で傷ついているサインかもしれません。
2. 「次は自分が言われる番」という恐怖
誰かの悪口で盛り上がった後、ふと怖くなることはありませんか? 「この人は、私がいない場所では私の悪口を言っているのではないか」 悪口の輪に入ることは、周囲への疑心暗鬼を生み、結果として自分自身の首を絞めることになります。
「コソコソしない」という潔さが、信頼を育てる
1. 隠し事は「精神的なコスト」を奪う
「あの人にはこう言ったけれど、この人にはああ言った」という不一致を抱えると、私たちは無意識にそれを記憶し、ボロが出ないように常に緊張していなければなりません。この「コソコソするコスト」は、想像以上に私たちのエネルギーを奪います。 一方で、誰に対しても、どの場所でも一貫した態度でいることは、隠し事のためのエネルギーを一切使わずに済むということです。
2. 「表裏のない人」という最強のブランド
誰かの噂話や陰口の場に遭遇したとき、コソコソと加担せず「私はそうは思いません」あるいは「その話、本人に直接伝えたらどうですか?」と、明るく潔く言い放つ。 そんな風に、裏表なく堂々としている人は、最初は周囲から「少し変わった人」と思われるかもしれません。しかし、時間が経つにつれ、周囲はこう思うようになります。 「あの人は裏で何を言っているか分からない、なんて心配がない人だ」 この安心感こそが、20年という長いキャリアの中で築き上げるべき「本物の信頼」の正体です。
3. 自分の背中を自分で見られるか
「コソコソしない」のは、他人のためではありません。自分自身のためです。 夜、寝る前に自分の行動を振り返ったとき、「今日の自分の振る舞いは、教え子や自分の子どもに胸を張って見せられるものだったか?」と問いかける。 善良であろうと努め、潔くあることは、自分自身の「自尊心」を守るための最後の砦なのです。
良であることは、自分への最高のギフト
善良であれ」と言うと、なんだか自分が損をするように感じるかもしれません。正直者が馬鹿を見る、そんな瞬間が学校現場には確かにあるからです。
しかし、20年という月日を経て私が確信したのは、善良であることで得られる最大の恩恵は、他人からの評価ではなく「自分自身の心の平穏」であるということです。
1. 「自分を嫌いにならない」という安心
誰かを傷つけたり、裏表のある振る舞いをしたりした日は、お風呂に入っていても、布団に入っていても、どこか心の奥が重苦しいものです。 一方で、たとえ周囲がどうあれ、自分だけは誠実でいられた日は、深い呼吸ができます。 「自分は正しいことをした」という静かな自信は、何物にも代えがたい心のサプリメントになります。
2. 未来の自分への種まき
今日、あなたが選んだ「悪口を言わない」「コソコソしない」という選択は、すぐには結果が出ないかもしれません。しかし、それは確実に数年後のあなたの「居心地の良さ」という果実になります。 20年経った今、私の周りに残ってくれているのは、やはり同じように「善良さ」を大切にしている人たちばかりです。
結びに:また明日から、選び直せばいい
もちろん、私たちも人間です。 疲れ果てて、つい愚痴がこぼれる日もあれば、心がささくれ立ってトゲのある言葉を吐きたくなる日もあります。 それでもいいのです。大切なのは、そんな自分に気づき、また明日から「善良さ」を選び直そうとすること。
善良であることは、誰かのために自分を犠牲にすることではありません。 誰よりも、自分自身を肯定し、愛するために贈る「最高のギフト」なのです。
